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和歌山県


わかやまじょう

和歌山城 (和歌山県和歌山市一番丁)
天守:連立式外観復元天守  日本100名城
戦国期の主な歴史
1585年 豊臣秀吉、紀州を平定。秀吉の命により、弟・秀長により築城される。総普請奉行は藤堂高虎
1586年 秀長の家老・桑山重晴が城代となる。
1600年 浅野幸長が37万石で入城する。
1613年 幸長死去。幸長の弟・長晟が城主となる。
1619年 長晟が安芸国に移封。徳川家康の十男・頼宣が55万石で入城し、徳川御三家・紀州徳川家が誕生する。
(メモ)
築城の名人・藤堂高虎が初めて手掛けた近世城郭といわれる。
歴代城主が改修、増築を行っており、石垣は「野面積み」「打ち込み接ぎ」「切り込み接ぎ」と様々な技法が用いられている。
鉄筋コンクリート造で外観復元ではあるが、連立式天守はかなり立派。
築城時は大手門とされた岡口門は重要文化財に指定されている。
江戸時代、紀州徳川家は「暴れん坊将軍」こと8代将軍・吉宗や幕末の14代将軍・家茂を輩出している。
魚介もいいが、和歌山といえば、醤油豚骨「和歌山ラーメン」を食べるべし。
連立式天守(外観復元)
岡口門(重要文化財) 岡中門跡の石垣 御橋廊下(江戸期・復元)



わかやましりつはくぶつかん

和歌山市立博物館 (和歌山県和歌山市湊本町)
<見れた展示物> 紹介している展示物は常に見れるとは限りません。
  
 
  
以下で紹介している展示物は2018年夏季特別展「和歌山城再発見!」で展示されたものです。

鉄錆地雑賀鉢兜 (市指定文化財) 和歌山市立博物館蔵
 雑賀衆が用いていたという兜。バケツを逆さにしたような頭部の形が特徴。鉄板を繋ぐための鋲がデザイン的にもいい。

徳川家康所用 南蛮胴具足 (重要文化財) 紀州東照宮蔵
 徳川家康所用の具足。ヨーロッパから輸入したもの改造してある。胴には銃による試し撃ちした跡が残っており、マスケット銃(深い2つ)と火縄銃(浅い2つ)によるものといわれる。

太刀 銘 安綱 (重要文化財) 紀州東照宮蔵
 徳川家康の佩刀。東京国立博物館所蔵の国宝「童子切」と同じ平安時代の刀工・大原安綱の手によるもので、糸巻太刀拵と共に重要文化財に指定されている。



きしゅうとうしょうぐう

紀州東照宮 (和歌山県和歌山市和歌浦西)
 1621年に徳川御三家・紀州徳川家の初代で徳川家康の十一男・頼宣よって創建された神社。家康を神格化した東照大権現と頼宣を神格化した南龍大神を祀っている。

 本殿には、日光東照宮の「眠り猫」を彫った左甚五郎作と伝わる彫刻や狩野探幽作の襖絵がある。また、家康所用の南蛮胴具足をはじめ、重要文化財に指定されている多くの所蔵品もある。

(メモ)
 規模はそれほど大きくないが、建築物などは立派で「関西の日光」と呼ばれている。
 所蔵品は、和歌山市立博物館などで行われる企画展で時々まとめて展示される。
 歩いて行ける距離に鉄砲傭兵集団・雑賀党の居城・雑賀城址もある。
 侍坂とよばれる階段は一度転んだら下まで落ちてしまいそうなぐらいきついが、脇には緩やかに登っていける階段もある。
唐門(重要文化財) 侍坂 楼門(重要文化財)



さいかじょう



妙見山山頂(本曲輪跡?)に建つ妙見堂
雑賀城 (和歌山県和歌山市和歌浦)
天守:なし
戦国期の主な歴史
戦国期  鈴木重意により築城されたと伝わる。
1577年 織田信長による紀州征伐。鈴木重秀(孫一)、雑賀城を本拠に織田勢と戦う。
1580年 石山本願寺、信長と和睦。重秀、信長に接近する。
1582年 本能寺の変後、雑賀党内の反織田派の動きを警戒し、重秀、雑賀を退去する。
1585年 豊臣秀吉による紀州征伐。紀州の平定と共に廃城になったとされる。
(メモ)
 雑賀党鈴木家の本拠地。城跡には、ほとんど遺構が残っておらず、城があったといわれれば、何となくそんな感じであったであろうぐらいにしか分からない。
 雑賀衆は、鉄砲傭兵軍団として知られているが、鉄砲や火薬の材料である硝石を仕入れるため、海運業も盛んだったといわれる。そのため、海(和歌浦)の近くに城があり、城跡(妙見山)の山頂からもそれは確認できる。



こうやさん

高野山 (和歌山県伊都郡高野町) 世界遺産
 


高野山真言宗総本山金剛峯寺
戦国期の主な歴史
816年 空海(弘法大師)が、嵯峨天皇よりこの地を下賜され開山する。
1521年 高野山大火。全山壊滅状態となる。
1573年頃 織田信長と領地保有を巡って対立が始まる。
1580年 信長に叛旗を翻した荒木村重の残党を匿い信長との対立が深まる。
1581年 信長が高野攻めを開始する。
1582年 本能寺の変。信長の死により高野攻めが中止となる。
1585年 豊臣秀吉による紀州征伐が始まる。
    木食応其が秀吉と交渉し領地返上、武将解除を条件に和議が成立。
1590年 秀吉、興山寺を建立。
1593年 秀吉、母・大政所の菩提を弔うため、青巌寺を建立する。
1595年 豊臣秀次、謀反の疑いをかけられ青巌寺・柳の間で切腹する。
(メモ)
 標高800mの平坦地に位置する。町全体に寺院が広がっている宗教都市で、奥の院の御廟では、今でも空海が禅定を行っているとされる。
 現在の金剛峯寺は、青巌寺と興山寺が合併したもので、柳の間と呼ばれる部屋は、豊臣秀次が切腹した場所。
 時代を問わず人々の崇敬を集めており、奥の院の参道には歴史上の人物から最近の企業まで、個人・団体を問わずお墓(供養塔)がある。
 霊宝館には慶派を代表する二人の仏師、運慶、快慶が手掛けた仏像をはじめ国宝、重要文化財に指定されている仏像を数多く所蔵しており、その一部を展示替えしながら公開している。また織田信長、豊臣秀吉の書状も所蔵している。
 いわずと知れた高野豆腐発祥の地。
大門(重要文化財) 奥の院・御廟橋 壇上伽藍・金堂
壇上伽藍・中門 壇上伽藍・根本大塔 壇上伽藍・六角経蔵



さなだあん

真田庵跡 善名称院  真田昌幸、幸村親子蟄居場所 (和歌山県伊都郡九度山町)
 1600年、関ヶ原の戦いで、西軍についた真田昌幸幸村親子は、上田城に立て籠もり、中山道を進軍してきた徳川秀忠3万8千の軍を数日に渡って足止めして、関ヶ原の決戦に遅参させる活躍をした。
 しかし、本戦で石田三成率いる西軍は敗北、東軍についた真田信幸(昌幸嫡男)が、義父・本多忠勝に働きかけて助命はされたものの、二人は、この地に蟄居となった。
 1611年に昌幸はこの地で没したが、幸村は1614年に豊臣秀頼から誘いを受けて脱出し、大坂夏の陣・冬の陣で「日本一の兵」といわれるほどの活躍をした。
(メモ)
 境内にある真田地主大権現は、怒れる昌幸の霊を鎮めるために建てられたという。
 近くに高野山への入り口で世界遺産にも登録されている慈尊院(女人高野)がある。
善名称院(真田庵跡) 真田地主大権現